[編集] 日清戦争に関して
日清戦争は、明治27年(1894年)7月から同28年(1895年)4月にかけておこなわれた。 福澤は『時事新報』1894年8月14日号に署名入りの「私金義捐に就いて」を掲載し、開戦となった以上、戦勝のために義捐金を寄せて欲しいと訴えた。
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晩年の自伝『福翁自伝』の「老余の半生」では、
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「顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有(ありがた)いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」
と述べている。[8]
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[編集] 福澤の男女同等論
福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した[9]。
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福澤は、男女同等論を唱えながら存娼論者でもあった。妾を養うことも芸者を買うことも隠してせよ、と隠匿論を述べ、公娼制度を積極的に肯定し、『品行論』(明治18年12月出版)のなかでは「社会の安寧」「社会の秩序」のために公娼制度はぜひ必要であると主張している。しかし、その娼婦を称して「其業たる最も賤しむ可く最も悪(にく)む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし」と罵り、隠れて遊べといっている[10]。
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[編集] 剣の達人
福澤は、立身流居合の達人であり、晩年まで健康のためと称し、剣の鍛錬に明け暮れていた。ただし、福澤自身急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく暗殺されそうになっているが、剣を持って戦った事はなく逃げている。無論逃げる事は最も安全な護身術であるが、福澤自身、剣術はあくまでも求道の手段であり殺人術でないと考えていたと思われ、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことが無かった勝海舟・山岡鉄舟の思想と類似する。
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日清戦争の頃、新聞社が当時存命していた幕末の「剣客」たちの座談会を企画した。席上、物故存命を問わず誰が最強であったかという話題になった時、出席者の全員が一致して「それは福澤だ」と言ったというエピソードがある。
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明治中期より武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、「居合刀はすっかり奥にしまいこんで」いた(『福翁自伝』)。はやりものに対してシニカルな一面も伺える。
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撃剣興行が盛んな頃、弟子の一人がすごい剣の名人がいる。と騒ぎ立てるため、その演舞を弟子と見に行ったら「あんなものたいしたことはない」といい、帰ってからそれ以上の演舞を弟子に見せ、驚嘆させたというエピソードがある。
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[編集] 福澤と勝海舟
福澤諭吉は、勝海舟の批判者であり続けた。戊辰戦争の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である咸臨丸の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件(清水次郎長が埋葬し男を上げた意味でも有名)で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の清見寺内に立てられるが、福澤は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が榎本武揚と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事(人の食(禄)を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味)」を見ると激怒したという[11]。
『瘠我慢の説』という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝、榎本両者は徳川家には充分尽くしたのであり、また徳川家という狭い枠にとどまらず、日本のために尽くしたのである。なお、榎本の釈放に尽力したのも福澤であった。
現に明治維新という急激な改革に不平士族たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついにそむくことはなかった。これは勝や大久保一翁、山岡鉄舟らの尽力によるものである。
[編集] 西洋医学
土屋雅春の『医者のみた福澤諭吉』(中央公論社、中公新書)や桜井邦朋の『福沢諭吉の「科學のススメ」』(祥伝社)によれば、福澤と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。
[編集] 『蘭学事始』の出版
杉田玄白が記した『蘭東事始』の写本を、福澤の友人神田孝平が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である杉田廉卿の許可を得て、福澤の序文を附して、明治2年(1869年)に『蘭学事始』として出版した。さらに、明治23年(1890年)4月1日には、再版を「蘭学事始再版序」を附して日本医学会総会の機会に出版している。
[編集] 北里柴三郎への支援
明治25年(1892年)にドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために、東京柴山内に大日本私立衛生会伝染病研究所(伝研)を設立して、北里を所長に迎えた。明治27年(1894年)には、伝研は芝愛宕町に移転した。移転の際に住民から反対運動が起こったので、福澤は次男捨次郎の新居を伝研の隣りに作って、伝研が危険でないことを示した。明治32年(1899年)に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、福澤と長与専斎と森村市左衛門とが創設した土筆ヶ岡養生園に移った。
慶應義塾医学所の創設
明治3年(1870年)、慶應義塾の塾生前田政四郎のために、福澤が英国式の医学所の開設を決定した。そして明治6年(1873年)、慶應義塾内に医学所を開設した。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵が就任した。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を医学訓練の場所とした。残念ながら明治13年(1880年)6月、医学所は閉鎖されることになった。
しかし、福澤の死後15年たった大正5年(1916年)12月27日、慶應義塾に医学部の創設が許可され、大正6年(1917年)3月、医学部予科1年生の募集を開始し、医学部長として北里柴三郎が就任することになった。
[編集] 脚注
^ 北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』(21頁)、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0
^ ただし、塾内の掲示物等では教員も君付けだが、塾生や塾員が教員に向かって面と向かって君付けで呼びかけるわけではない。これは、義塾草創期は上級学生が教師役となって下級生を教授していたことの名残といわれている。
^ この場所には、のち大阪大学医学部附属病院が設置され、現在は朝日放送の新社屋(2008年5月稼働開始)が建つ。
^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「日本国人の大胆」(111頁)を参照。近代デジタルライブラリー収録『福翁自伝』の「始めて亜米利加に渡る」の章を参照。
^ 近代デジタルライブラリー収録『福翁自伝』の58頁を参照
^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「幼少の時」の章にある「稲荷様の神体を見る」(23頁)を参照。
^ 北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』(7-9頁)、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0
^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「老余の半生」の章にある「行路変化多し」(316頁)を参照。近代デジタルライブラリー収録の『福翁自伝』では547-548頁を参照。
^ 青空文庫の『中津留別の書』
^ 以上、吉見周子 『売娼の社会史〈増補改訂版〉』 雄山閣出版、1992年。ISBN 978-4639004189 48-49頁。
^ 次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲というアウトローが尊ぶ精神構造と似ていたせいか福澤と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。